星野仙一監督がご逝去【涙の生涯明細】

星野仙一楽天

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星野仙一さんがお亡くなりになられました。ご冥福をお祈りいたします。

死因はすい臓がんでした。70歳でした。「最期は昼寝でもしているような安らかな表情」だったそうです。(楽天が発表)

略歴を振り返ってみましょう

1947年(昭22)1月22日、岡山県に生まれました。

倉敷商から明大を経て1968年ドラフト1位で中日入団します。

現役時代は中日一筋でプレーし「燃える男」と呼ばれました。

1982年引退まで通算500試合に登板し146勝121敗34セーブ、防御率3・60。「巨人キラー」として巨人から35勝を挙げています。

1974年最多セーブ、沢村賞。1987年に中日監督に就任しました。

中日で1988、1999年、阪神で2003年に優勝を納め、史上初めてセ2球団を優勝へ導いた実績があります。

2004年に阪神シニアディレクター就任しました。

2008年には北京五輪の日本代表監督(4位)、2011~14年は楽天イーグルス監督。

2013年には球団初の日本一に輝きました。

監督成績は通算1181勝は歴代10位です。

2003、2013年正力賞を受賞。

現楽天球団副会長を務めていました。

2017年には野球殿堂入りを果たしています。

現役時代は180センチ、80キロ、右投げ右打ちでした。

生い立ちをたどってみましょう

お生まれ

父の仙蔵は1898年に、兵庫県神戸市生まれ、岡山県邑久郡長船町(現・瀬戸内市)の出身です。

もともとは大樫姓だったが、正田(まさだ)氏の養子となっています。

後に名古屋市に出て航空技術者となり、三菱重工業名古屋航空機製作所(三菱自動車工業の前身)に勤めます。

1943年、当時の児島郡福田町水島に三菱重工業水島航空機製作所が開設され、その工長に昇格し、家族そろって、郷里の岡山県に戻り福田町に移り住みます。

しかし父は仙一が母の胎内で7カ月の頃の10月に48歳で亡くなってしまいます。

母の敏子は1912年に、星野嘉市(仙一の外祖父)の娘として、愛知県幡豆郡に生まれ豊橋市で育ち、生後間もなく母のまきを失くテシマいますが、その後父とともに上京して浅草の父がはじめた紙問屋の娘となります。

関東大震災で損害を受けたため、郷里に戻り、名古屋市立第三高等女学校(愛知県立旭丘高等学校の前身の1つ)を出て、名古屋市内の病院で看護婦を勤め、1935年に敏子が勤務する病院で入院していた仙蔵に出会って結婚します。
(ただし、双方とも生家の後継ぎだったので、入籍はしていません)

仙蔵が亡くなった後の敏子は三菱重工水島工場(のちに三菱自動車水島工場)の寮母として働く傍ら、仙一と2人の姉を育てあげます。

入籍していなかったので、姉2人は実の姉弟でありながら姓が違い、結婚まで父方の「正田」の姓を名乗っていました。

なお、仙一は「最後に生まれた子供が、(母方の)星野の姓を継ぐ」という条件で結婚を認められたため、末っ子の仙一だけが星野姓を名乗ることになりました。

生まれた時から将来を予感させる波瀾万丈な人生ですね。

ご家族

星野仙一さんには娘さんが2人います。

妻の扶沙子さんは既にお亡くなりになっています。

星野仙一記念館

生まれ故郷の倉敷には星野さんの功績をたたえた「星野仙一記念館」があります。

星野仙一記念館

星野仙一さんはファンにとっても、そうでなかった人にとっても野球界に多大な影響を残しました。

心よりご冥福をお祈りいたします。

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